『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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94れる≳――氏公の子峯継は正三位中納言まで昇ったが、貞観二年(860年)没したあとはこの一流には人材に欠け、氏公の叔父嶋田麻呂の一流から参議広相、子の中納言公頼、孫の大納言好よしふる古など公卿が出たが、同流の参議恒平が永観元年(983年)に没すると、公卿にまで昇る者は全く絶えてしまう。≲*862年*リューリックがロシアの起源となるノヴゴロド公国を建てる≳――そのため、氏爵のことは姻戚の藤原氏の是ぜ定じょう(氏定)の手に移った。橘氏一流はみな是定の家に帰属したから、是定は事実上橘氏の氏長者となった。五摂家の分立後は九条・一条両家当主が橘氏是定となり、鎌倉時代後期頃よりは多く九条家当主が補任されることとなる。≲*875年*唐で農民の反乱である「黄巣の乱」が始まり、唐滅亡の契機となる≳――橘氏の嫡流は、平安時代末期、好古五世の孫広房ののち、以長・以実の二流に分か

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