『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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74えるのだ。当時の秋田県北部の地頭職をめぐっては、いろんな資料の中でこの公業の総地頭職の話だけが目立つ。公業が秋田郡の湊など三ヶ所の地頭職を承元四年(1210年)に娘の薬くすのうえ上に譲ったとか、その後、薬上と弟の公きんかず員が湊の領有をめぐって争った結果、公員が領有することになったとか、領有権の変遷についてかなりの記録が残っている。このため同様に、橘元長も公業から「斑目」郷を分け与えて貰ったという見方に傾きがちなのだ。これに対し、斑目郷の唯一の研究者といえる宮城教育大学名誉教授の遠藤巌氏に話を聞くと、「違います。斑目郷は公業から分けてもらったものではなく、鎌倉の将軍からもらったものです。斑目郷は郷であっても、公業の土地がある秋田郡とは別で、並列的に考えられる独立した地域としてありました」と断言する。次に、『橘姓斑目氏系図』にある惟基の左の添書きは何を意味しているのか。こう書いてある。

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