『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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53第2章 「100%の立証は不可能」だがそれが事実であれば、何を意味することになるのか。『吾妻鏡』によると、以広の活動は1180年代から幾つかの記事に記録され、最後の記事として「正治二年(1200年)二月二六日」の条に「前右馬助以広」とある。つまり、1200年までは生きていたということだ。広房が1111年に死んだとなると、仮に以広がその年に生まれたとしても、89歳まで生きたことになる。むろんありうる年齢ではあるが、少し無理がありはしまいか……。国会図書館や東大史料編纂所に行って、橘広房の関連資料をめくって確かめてみたが、どれも同様に「1111年に殺害された」と書いてあった。宝賀氏のメールを何度も読み返しながら謎解きを繰り返していたところへ、翌日、また宝賀氏からメールが届いた。宝賀氏も広房の「1111年」が気になっていたようだ。

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