『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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44門地がひくいため京の朝廷で志を得ず、東国にくだって頼朝の関東政権につかえ大いにその政治能力を買われ、かれ自身もその才能をいきいきと発揮している。◇以広がそんな京下り官人だったという指摘は、かつて小田原市立図書館研究員の森幸夫氏の著書『六波羅探題の研究』で目にしていた。第二編・第一節「引付方設置以前の奉行人」の中にこうある。――公文所は後に政所に発展するが、頼朝期にはさらに惟宗孝尚・橘以広・藤井(鎌田)俊長・中原光家・源邦業・武藤頼平・清原実成・藤原(二階堂)行光らが構成員として所見する。これら問注所・政所の職員の出自は、目崎徳衛氏の研究に拠ると、A「御家人」・・・(省略)・・・、B「現地(東国=森註)」在住の元官人」・・・(省略)・・・、C「一旦は仇敵に属した者」「降人」・・・(省略)・・・、D「京下官人」(三善康信・平盛時・大江広元・中原親能・藤原行政・惟宗孝尚・橘以広・源邦業・清原実成・藤原行光)等に分類される

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