『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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43第1章 薩摩斑目家は京都貴族の橘氏も康信は養和元年(1182年)二月八日には頼朝の求めに応じて伊勢神宮に捧げた『四海泰平・万民豊楽』を祈る願書の草案をつくっている。その康信が鎌倉に下ってきたのは、平氏が一の谷の合戦で敗れ、源平合戦の帰趨がついた元暦元年(1184年)四月一四日、幕府の基礎がつくられようという時期であった」「京都時代の康信は応保二年(1162年)正月二七日に『右少史三善康信』となり、同二月十九日に『中宮少属正六位上三善朝臣康信』と見える。頼朝が伊豆に流された翌々年に右少史となり、次いで育子中宮の中宮少属となったのである。史は太政官でも訴訟や公事についての事務を行う役職であり、その技能が幕府で役立ったのであった」京下り官人の代表者といえる大江広元については、司馬遼太郎が小説『義経』でこう書いている。――「広元、そろそろ潮か」と、頼朝は京の官人くずれのその文官に相談した。相手は大江広元である。広元は

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