『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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42たっては、武士の力だけでは不可能であった。幕府の行政を支える官僚、つまり文筆に秀でた人々が必要とされた。これを幕府は文士と呼んでいた」京下り官人とは京都朝廷で文筆行政の経験を持っていた、その「文士」のことである。「以広」が京都から鎌倉へどんな経緯で下ってきたかは、史料が残っておらず、直接には調べようがない。具体的な事情は分からないが、時代背景として、朝廷は藤原五摂家を頂点とする出世競争の有資格者層がごく限られてしまっており、下級貴族は将来を開けないという状況だった。他の京下り官人の例をのぞいてみよう。鎌倉幕府問注所の中心メンバーとなる三善康信の記述が、同著にある。「康信は、母が頼朝の乳母の妹であった関係から、その志を源家にかよわして、山川を凌ぎ、毎月三度の使者を頼朝のもとに派遣して洛中の仔細をしらせていたという。その後

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