『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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267第11章 白河斑目家の橘姓はどこから条執権の威圧に押されて凋落。嘉禎二年(1236年)には本領の伊予国宇和郡を西園寺公経に譲渡させられ、替地として九州の肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を与えられた。その結果、子孫は肥前国を中心に九州へ広がり、「小鹿島」の地名をとった小鹿島氏として繁栄した。公長、公業ともに生没年は不明だが、『吾妻鏡』の記録を見ると、少なくとも公業は1180年代から1230年代を生きて活動している。橘以広・惟広が活動した時期でもあり、鎌倉幕府の御家人同士として接点があったはずである。また橘元長、すなわち惟広が斑目郷の地頭に任命されたのが1206年であり、それを継いだと見られる息子・惟基とも生きた年代・地域が重なって来る。公業一族が秋田から九州へ移った、その辺りの事情について、秋田魁新報社刊(1982年)の『中世の秋田』(塩谷順耳編)が「北条勢力の浸透~橘氏の離秋」の章で、こう書いている。

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