『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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264れば、その道貞の「橘」が斑目四郎の一族にまで影響を及ぼしていてもおかしくない。③ 橘道貞の陸奥守に対して出羽守には、貞観二年(860年)に橘信蔭、天禄二年(971年)に橘時舒、承歴元年(1077年)に橘行房がそれぞれ任じられている。橘姓の人物が出羽国の最高権力者として君臨していたということにフォーカスすれば、出羽国府・秋田城の周辺地である小鹿島や秋田郡の一帯で橘氏が勢力を広げ、斑目と結びつくのはごく自然な流れでもある。④ 宝賀寿男氏の研究によれば、11世紀の初め、紀伊半島の熊野地方にいた橘氏が秋田郡に入ってきている。熊野の国造の一族で、縁あって橘姓を名乗り始め、後世に楠木正成を出す一派である。「その一派が前九年の役(1062年)の時には武士化し、第二陣と第四陣の司令官を務めた貞頼・頼貞兄弟の橘氏に、ひょっとしたらなっている可能性があるかもしれない」という。ならば斑目四郎の一族につながっている可能性も同様だろう。

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