『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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206原武則の次男に位置づけられており、その注記に「斑目二郎」「号吉美侯」とあります。矛盾なくこれらを組み立てるとすると、武忠は、吉彦氏で生まれて清原氏に養子に行き、清原の子になってからも実家を忘れないようにと「吉美侯」を名乗らされていたのだと考えられます。第三の系図は、信憑性については怪しいところもありますが、使える部分もある、とお考えください。上記のことも、拙論で書きました。◇ ◇ ◇吉彦秀武というバイパスを経由することによって、目的地の斑目四郎へと連なる道が、突然くっきりと現れ始めた。野中氏の出来たてのホヤホヤである「今月末刊行予定の拙論」をぜひ読んでみたいと思った。

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