『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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203第9章 斑目四郎の先祖が見つかったることをよしとしない野中教授の、学者としての姿勢がよく分かるものであり、失礼ながら一部を以下に掲載させていただく。◇ ◇ ◇非力ながら、お返事申し上げます。①→兄吉彦秀武は永保三年(1083年)のころに70歳ということですから、弟武忠は生存していたとすれば65歳前後。すると、寛仁三年(1019年)前後の生まれということになり、前九年合戦の営たむろがおかヶ岡参陣(康平五年=1062年)の時には43歳前後となります。参陣から一ヶ月後に前九年合戦は終結しますので、43歳、ばりばりの壮年であった武忠は、清原新体制の一翼を担う人物として、一郡を与えられるほどの立場にいたと考えられます。ただし、それが奥六郡側であったのか、山北三郡側であったのかは不明です。吉彦秀武のように山本郡に残っていた清原一門もいたでしょうし、清原武たけひら衡・家いえひら衡のように山北に所領を持ちながらも奥六郡側に本拠を移していたものもいたでしょう(野中説で

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