『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
202/356

200析した結果、「12世紀初めには成立していた」との画期的な説を、20年近く前に主張した。後三年合戦が終わったのが1087年だから、約250年後になる「14世紀半ば」の場合と約40年後になる「12世紀初め」の場合とでは、『奥州後三年記』の解釈が決定的に違ってくる。250年も経っていれば作者の想像力の所産ではないかとの見方に傾くのに対し、40年程度であれば関係者がまだ生存しているなど、合戦後の生々しい事情をさまざまに反映している可能性がある。しかし、歴史学者たちからすれば、「歴史学」の門外漢による耳障りな主張である。このため長い間、学界から批判はされても、なかなか受け入れられることはなかった。だが、20年の時が経るにつれ、その主張の説得力が浸透していき、近年ではこの野中説がほぼ定説になっているという。『吉彦秀武の実像』は、そんな野中氏が三年前に発表した論文だった。この原稿を書いている今の時点で振り返れば、今回の取材は「歴史学」の枠外にいる野

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です