『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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186御家人の地位を持てなかった者は、たぶん地頭の下で従属する道を選ばざるを得なかった。だからといって武家社会の中での格式が低かったわけではない。御家人か御家人じゃないかという基準で言うと、御家人の家来でしかないけど、武士の世界の中でのペーペーとまでは言えない。相当勢力の強い者たちも地頭にはなれず、地頭の下に立つ世界があったかもしれない。そういったことを考えると、斑目四郎とか前九年合戦以来の奥羽の現地武士で御家人になれなかった者が、みんな滅びちゃったかというと、そういうことにはならないんじゃないか。むしろ彼らと連携しないと、鎌倉出身の地頭たちもうまく郡行政なんかできなかったんじゃないでしょうか。――戦後行政という点では、現代人の常識で考えても、そうなりますよね。マッカーサーだって占領行政をするにあたって、日本の官僚組織を残したわけですからね。そこは鎌倉時代もそうなんで、小早川氏っていますよね。小早川が中国地方に領地を得たときに、まさしく占領軍政なんです。まず平氏が滅んだ時に一つ領地をもらい、承久の乱(1221年)の時にお隣の荘園に攻め込む。お隣の荘園が後鳥羽上皇方だったんで、

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