『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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162となると、「直則」流れの斑目一族と「惟基」流れの斑目一族が同じ地域にいることになる。であれば、両系統は同じ「橘」の姓と、同じ「斑目」の名字を持つことからしても、常識的な推論として、婚姻や養子縁組などを通じて一体化している可能性が強いと見ることができるのではないか。つまり、この一体化こそが「直則」の流れが橘姓を名乗り始めた理由ということである。念のために一つ付け加えておくと、前述の「惟秀」同一人物説は詰めて考えた場合には、若干の論点が見つかる。五味克夫氏から頂戴した『橘姓斑目氏系図(増補版)』によると、惟秀は惟基の孫であり、その惟基は壮年期前後に宝治合戦を経験した人物。宝治合戦は1247年に戦われたと分かっており、それに一世代を30年として二世代分の60年を足すと1307年。惟秀は概算上、1300年初めごろに壮年期を迎えていることになる。これに対し、前述した斑目惟秀の名が登場する白河結城関連文書を見ると、①結城親朝

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