『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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161第7章 疑わしきは「家伝」の利益に◇次に、⑤の「東日本斑目家と薩摩斑目家は出羽国の斑目郷という根拠地を同じくしており、その地での活動や婚姻などを通じて一体化している可能性がある」ということ。斑目四郎の子孫として「直則」の流れの出自は言うまでもなく秋田県北部の斑目郷。一方で、以広・惟廣の流れの出自は京都橘氏だとしても、「斑目」を名乗り始めた惟基のころから、斑目郷の地頭として一族が暮らしたと思われる。1247年の宝治の乱の余波を受けて、確かに惟基は領地を没収され、薩摩斑目家へと移っている。しかし、学者・研究者の見解を集めてみると、「領地を没収され」という事態は必ずしも、「斑目」の地と完全に縁が切れたことを意味しないと見られる。それどころか、一族も土地も斑目郷で、宝治の乱の以前とそう変わらないまま続いている可能性も十分あるようだ。

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