『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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152奇しくも埼玉大学の清水亮准教授が論文『在地領主の被官と南北朝内乱――陸奥国白河結城氏を中心に――』で①②③の文書について検討を加えてくれている。その論文から引用しつつ、白河斑目氏の「斑目惟秀」の人物像を見てみよう。まずは①の『結城親朝宛御教書』。南北朝時代の史論書『神皇正統記』の筆者として名高い公卿・北畠親房が南朝方を応援していた結城親朝宛に書いた文書である。斑目惟秀は親朝の父・宗広が地頭職を持つ駿河国須津荘内須津河郷の代官をしていた。その惟秀について、こう伝える。「斑目式部大夫惟秀、権守を望み申し候。本領を帯ぶるの上、直の奉公を免ぜらるるの上、今においては子細無く候か。よって今度免許の御判を遣わされ候なり。いよいよ忠をいたすべきの由、仰せらるべく候」親房は官職の提供を手段として奥羽の武士団を南朝方に誘引しようとしていた。惟秀は「式部大夫」を名乗っていたが、南朝方に味方するにあたって「周防権守」の官職を望ん

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