『薩摩斑目家』の歴史
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97四★鹿児島国際大学短期大学部名誉教授・三木靖氏インタビューなっているんでしょう(笑)。三木 そんなこと全然珍しくないから、私はあまり気にならないんだけど(笑)。一つはですね、当時の武士は名前を変えちゃうことが多いんです。名前を幾つ持っていてもおかしくない。例えば、出家名があったりするでしょう。少なくとも鎌倉期、南北朝期ぐらいまでは、一人の武士が幾つも名前を持っていてもおかしくない。いまの世では普通じゃないけど、中世まではごく当たり前ですよ。だから、一つの可能性としては、名前を変えたから、以後の動向が分からなくなっているという可能性が、大いにあるんですよ。 ―以広については、「建永元年(1206年)のころに薩摩にやって来た」という伝承が、「祁答院記」に書いてあったりしますね。三木 ありますね。必ずしも否定はされないんですけど、本人が単純にぶらりと移住してきたということは、非常に可能性が低いと思います。このクラスの武士が移住してくるときは、一族や代官が先遣隊として来て、移住の条件を作るというケースが多い。一族の

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