『薩摩斑目家』の歴史
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87参★祁答院の斑目家「着到状」とは、中世の武士が戦や非常事態に向けて、将軍などから参集の命を受けたり、自発的に出陣したりした場合に、馳せ参じを証明してもらう文書である。軍忠状と同じく、後日、恩賞請求のための証拠となる。「橘政泰着到状」は元亨四年(1324年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府の討伐を企てた「正中の変」で、泰基の子の政泰が幕府からの命令を受けた島津貞久の軍団に加わって、子の政行とともに博多に駆け付けたもの。「沙弥行恵着到状」は元徳三年(1331年)、南北朝の動乱に入り、沙弥行恵(政泰)が筑紫探題の北条英時の募兵に応じて、博多に駆け付けたものだ。(佐藤真人氏)「着到状や軍忠状はよく残っている文書です。着到状は、まだ戦にはなっていないけど、戦場には行きましたよという証明書。そこで軍功をあげれば、軍忠状というのが出るわけです。誰の首を取ったとか、傷を負ったとか、何人殺したとか。戦場には、必ずお目付け役という者がいて、そのお目付け役に申請するんです。これを後世に残しておけば、子孫は誉れ高き家柄だとなります。行くときは、だいたい守護の島津家なんかか

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