『薩摩斑目家』の歴史
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74の肩書を持っていたとしても、まだまだ赤裸々な武力が問答無用に物を言う世相である。武士同士の無秩序な緊張感が広がる中、いたるところで軋轢が繰り返された。渋谷家からすれば、できるだけ武力衝突を避けながらも、幕府が期待する地頭としての支配体制作りをなんとか進めていきたい。(佐藤真人氏)「当時の武士は有名な姓を持つ者に対し、一目置くんです。祖先が武功をたてたとか、大きな軍隊を仕切ったとか、名前が世に通っている人たちを、自分の親戚にしたがる。特に、東国から九州にやってきた西遷御家人なんか、その傾向が強く、瀬野精一郎先生の『鎮西御家人の研究』という本にも出てきます。自分の本拠にする土地のすぐ外側に、その有名な武士たちを配置していく。それだけで、在地勢力に対して武威というか、圧力になる。泰基の養子入りは、そういう流れの下にあったものじゃないですかね」「斑目」の名が、高い付加価値を持っていたということか。「前九年の役」を描いた軍記物語「陸奥話記」が十一世紀後期には成立していた。そこに第六陣司令官として1500人の軍勢を率い、「前九年の役」を勝利に導いた斑目四郎の姿がある。鎌倉幕府

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