『薩摩斑目家』の歴史
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71参★祁答院の斑目家名前で資料が書かれてしまうことはよくある。渋谷一族の例でも、本当はすでに宝治合戦で死んでいるけど、その人がさも来たように書いてある」では、③の惟基避難説はどうか。惟基とは、「橘姓斑目氏系図」によると、政所衆・以広の孫、問註所衆・惟広の次男であり、その注意書きに「羽州在國間、雖不知其意、舎兄廣長自害時被召所了」と記された人物。要するに、出羽国で地頭をしていて鎌倉を離れていたのだから、実兄広長が自害するにいたった事件のことは知らなかったが、一族としての咎で所領を没収された、というのである。事件とは何か。さきほど佐藤氏の話にちょっと出てきた1247年の宝治合戦。斑目家にとっては、広長、長高の父子が自害に追い込まれた痛恨極まる事件である。鎌倉幕府の実権を握った北条氏は、承久の変を経て、朝廷方の公卿や武士の所領を没収し、配下に分け与えることで支配力を強化していった。最大のライバルだった三浦泰村を一族一派ごと絶滅させるため家を焼き払うなどし、五百余人を自害に追い込んだ。そこに

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