『薩摩斑目家』の歴史
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63参★祁答院の斑目家他の軍団長がみな出羽国の出身で、その出身地名にまつわる名前を持つ中で、同じ条件を持つのに、斑目四郎だけが非・出羽国の出身というのでは、あまりにも無理がある。つまりは、斑目四郎は出羽国斑目の出身であり、であるならば、同地の地頭を務めた「橘元長」の先祖である可能性が強いと考えるのが自然だろう。(佐藤真人氏)「まあ、斑目四郎の本拠地が出羽の国だった可能性が高くなりはしたんでしょうね。この場合、子孫が鎌倉時代に入って役職なんかに就いていれば、鎌倉の近くに屋敷を持って行き来しなければならない。そのための屋敷、それが相模国の斑目という地名として残ったのかもしれない、といった一応の理解でいいと思う。斑目四郎から以広までの関係が、直系なのか、あるいは途中で分家が入っていたりとか。そうしたことは、隙間を埋める史料がない限り、何とも言えません」学問の方法論を客観的に厳守する限りは、結論はなおもペンディング気味にならざるをえない。そのもどかしさに対し、文雄氏は「斑目家文書」を援用しながら、子孫としての

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