『薩摩斑目家』の歴史
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49参★祁答院の斑目家☆「橘」と「斑目」以広と惟広は、「吾妻鏡」に繰り返し書かれているが、登場する時はいずれも「斑目」姓でなく、「橘」姓になっている。当時の御家人は本姓として、基本的に「源」「平」「藤」「橘」のいずれかを名乗る習わしのため、「橘」を名乗ったということではあろう。とはいうものの、遡ること百三十年、先祖であるはずの「前九年の役」の軍団司令官、斑目四郎の存在を考えるとき、この二人が「斑目」を名乗っていないことが、「なぜ?」との疑念を呼ぶ。(佐藤真人氏)「これは単に、名乗りの問題でしょうから、そんなに違和感はありません。当時の出自を表そうとして、おおまかな言い方で『橘』を使ったんでしょう。しかし、その時点で、以広と惟広が斑目の名を持っていたかどうかは、分かりません。斑目という名が付いた所領を持っていたかもしれないけど、ちょっと分からないというのが現状でしょう」

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