『薩摩斑目家』の歴史
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20その高城に置かれた国府の周辺一帯は、九州第二の大河である川内川が東シナ海へとゆったりと、時に急流となって流れ下り、両岸に肥沃な土地を広げていた。宮之城文化懇談会編の郷土地誌「虎居城物語」の記述を借りて、当時の風景にタイムスリップしてみよう。―紫尾山系に囲まれた盆地の中は到るところ瀬戸があり、道らしい道もなく、山は雑木林で鬱蒼と暗かった。地質はほとんどシラス地帯でさらさらと脆かった。川内川の両岸は土手になっており、樹木が繁茂し神秘的でさえあった。―清冽な川内川の流れは、その源を肥後の白髪岳に発し、長さ約140キロの路程を、有史以前から滔々と止むことなく、流域の人間達の営みを見守りながら流れ続けている。―こんな辺鄙な田舎にも、全国統一のための手段施策が講じられた。薩摩の国には高城郡(いまの川内市)に国府が設けられた。当時(702年)日向の国から分立して薩摩国が出来たのであるが︙︙。「薩摩斑目家」は十三世紀末、地頭となった渋谷一族の祁答院家から泰基が養子に入り、

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