『薩摩斑目家』の歴史
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18る(1477年)→鉄砲が種子島に伝わる(1543年)→織田信長が今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」(1560年)→室町幕府滅亡(1573年)。中央政局の戦いの余波は薩摩の地を洗わずにはおかず、「薩摩斑目家」の運命は荒波に翻弄される木の葉に似るものとならざるをえなかった。薩摩では、守護の島津氏と地頭の渋谷一族などが、東国や京都から押し寄せる波に揺られながら盟主の座を争い、複雑な合従連衡を繰り返してせめぎ合い続けた。そのうねりを反映してか、「斑目家文書」の全21通のほとんどは、「行蓮譲状案」の正応元年(1288年)から「河内守延重名字書出」の応永十九年(1412年)まで、120年余りの間に集中している。では、「薩摩斑目家」の人々が生き、死んでいった「薩摩」とは、どのような舞台であったか。

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