『薩摩斑目家』の歴史
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134の攻防戦で戦った郷士は約600人と言われる。いずれも西南戦争の「出陣者」としての名簿はないが、先に「少なくとも亀太郎と仲左衛門の二人が出陣していた」と書いたのは、二人の名が「戦死者」の名簿に記載されているからである。亀太郎は前記の清左ヱ門の弟で、三月二十七日、熊本出京町で戦死、19歳。仲左衛門は分家筋の戸主だが、氏名のみで他に記述は一切ない。当時、出水麓に3戸しかなかった斑目氏の2戸で死者が出たことになる。☆日本最強軍団「出水兵児」を誕生させた「修養掟」この章の締めくくりとして、日本最強の軍団を誕生させた「出水兵児修養掟」を紹介しておこう。口先の多弁が氾濫する時代から見れば、何の変哲もない言葉に見えるかもしれない。だが、言葉がまだ言霊としての力を持っていた時代の事である。出水では「郷中教育」の行動規範として、子弟たちの骨の髄まで染みつき、「掟」に生きようとする彼らの気概が、全く違った。

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