『薩摩斑目家』の歴史
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125五★出水麓の斑目氏以上の条文は一部であり、その他の生活面や服装等についても、倹約するように示している。前出の「竹添弥八兵衛」は、麓の「噯(あつかい)」役を務めた有力者。その日記を見ると、嘉永六年(1853年)八月二十日の項に、「郡見廻斑目六郎」なる人物が登場している。「享保七年高帳」から130年余り経過しているが、あの時に本家・藤左ヱ門の家から分家独立した六郎の子孫で間違いなかろう。「無屋敷」という明日をも知れぬ境涯にいたが、子孫の六郎は麓内で「郡見廻」という農事や夫役を取り仕切る役職に就くまでになっていた。嘉永六年といえば、米国の黒船が浦賀沖にやって来た年。八月二十日といえば、日本中を騒然とさせた突然の来航から二カ月半が経っている。その日、麓の空は曇り。六郎は三役らと一仕事を終え、一緒に焼酎を楽しんでいた。

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