『薩摩斑目家』の歴史
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123五★出水麓の斑目氏門は、耕作地の権利を争って斬り合うにいたり、覚兵衛は負傷がもとで死亡した。藩が下した裁きは、児玉を川辺郡山田村へと所移しにしただけだった。覚兵衛の遺児、刑部左衛門と助右衛門の兄弟はいまだ年若く、念願成就の時を迎えるために、昼は農業、夜は剣術と、まさに臥薪嘗胆の日々を送った。そして7年後。正徳元年(1711年)六月、兄弟は山田村に赴いて、見事児玉を討ち果たし、覚兵衛の無念を晴らした。藩の裁きは、南家の断絶と兄弟の切腹と決まり、二人は半年後の朝、自宅で切腹した。出水郷士はどんな身の上になろうとも、あくまで武士であった。ちなみに、出水郷には当時、赤穂四十七士の唯一の生き残りである寺坂吉右衛門が流れ住んでいたと言われ、「寺坂吉右衛門」名の墓が残っている。麓社会の歯車を動かす潤滑油として「焼酎」による「呑ん方」は、やはり欠かせないものであった。貧しいながらも焼酎の気晴らしある出水麓の日々だったが、薩摩藩の経済状況はさらに深刻化していた。まずは財政を立て直さなければならず、文化七年(1810年)に「御倹約帳」が、続いて天保十五年(1844年)には「御倹約ケ状書」が出され

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