『薩摩斑目家』の歴史
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120徳川吉宗による享保の改革で倹約令(1724年)が出る2年前の「享保七年高帳」では、藤左ヱ門が2石9斗の高持士に復帰。しかも、これが5斗5升2合を斑目一族の仲左ヱ門への返済に充てた後の数字であることを記録している。また、次男の六郎が分家独立したことも添え書きしてある。とはいっても、住む家さえない「無屋敷」の身分で、嫡子藤八を連れていた。この不可思議な「分家」と「無屋敷」の事情については、後章のインタビューで出水市歴史民俗資料館の肱岡隆夫さんに語ってもらう。無屋敷士や一ヶ所士は、鍛冶屋、大工、染物屋などの仕事に就いてでも、郷士としての体面を保たねばならなかった。一方で、いかに生活に追われようとも、武士である以上は武術の修練も怠るわけにはいかない。仲左ヱ門はといえば、5石5斗とやや貧困化しているが、八月には嫡子四郎右ヱ門に待望の長男平次郎が誕生している。嫡男子孫による名跡継承の見通しが立ったがゆえのことか、直前の七月には、四郎右ヱ門の弟甚六が他家へ養子に出ている。

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