『薩摩斑目家』の歴史
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118また「3番」では、どこから出水麓にやって来たのか、出身地が半数近い郷士には添え書きされているが、斑目氏の二人には記載がない。それは何を意味するのか。これには幾つかの説があるが、一つの説として「斑目氏は出身地を言いづらい立場にいた。島津宗家と折り合いがわるい出身であったということ。つまり、対立して滅ぼされた薩州島津家の家来であったことを示している」とも言われる。その「3番」から17年後の寛永十四年(1637年)。日本史上最大の一揆で、幕末以前では最後の本格的な内戦である島原の乱が勃発。日本全体が九州諸藩を中心に大きく動揺し、薩摩藩からも1000人が出兵した。そんな年の「5番」では、ついに本家の藤左ヱ門尉までもが持高のない「一ヶ所」に急転落。四半世紀前には70石あったことからすれば、この激変ぶりはいったいどうしたことか。もう一戸の斑目氏は「越中介」と戸主名が変わり、こちらは7石3斗と困窮状態からは復活。しかし、住居地が出水郷の中心である「麓」から、都落ちしたかのように、なぜか「平松衆中」へと変わっている。

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