『薩摩斑目家』の歴史
103/189

101四★鹿児島国際大学短期大学部名誉教授・三木靖氏インタビュー谷一族がどこに本拠を築いてとかなんとか言っているけど、後から見てそう言っているだけで、当時の時点では極めて危うい側面があったわけです。地頭なんて鎌倉中期までは、ぜんぜん大きな影響力は行使できていない。北薩の現場にいる人たちは自分の身を守るのに精一杯という、極めて厳しい環境にいたんです。 ―そもそも、泰基は鎌倉の本家筋の御曹司。それが薩摩の分家の祁答院家から斑目家に養子に入った形になっている。よく分かりませんね。三木 確かに、よく分からないですね。ただ当時、養子関係というのはごく当たり前だし、現代から見ればわけが分からないような結びつきを、みんなけっこう持っている。渋谷一族でも、高城家や東郷家なんかもみな分家なるものを持っていて、そこが実際には血筋を引いていないのに、分家として動いています。 ―その泰基が養子に入る前の段階では、斑目家の人間は薩摩にいなかった?

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です